秀巖先生の教え

 

恩師宮澤秀巖先生が遺された多くのお言葉の中から、特に大切だと思われるものをピックアップして、自分なりに解釈してみました。言うは易く、行うは難し。どこまで実践できているかは心もとない話ですが、常に心の片隅において精進したいものです。


 

終生学んでやまず。
書道は、幼稚園児から高齢者まで、誰でもいつでも学ぶことができますが、一旦学び始めたら長く続けることが大切です。最初は「金封の表書きが書ければよい」程度の軽い気持ちで始めた人も、学んでゆくうちに、次第に競書から臨書、臨書から創作へと夢はふくらんでゆきます。少し上手に書けるようになった頃には、更に次の課題が見えてきます。書の道は学べば学ぶほどに奥が深く、ここまで勉強したからよいというものではありません。学びの過程は成長の過程でもあります。学び続けることによって、成長し続けることができます。そこが書道のおもしろいところです。
森羅万象より学べ。
書道をやっているのだから書道だけをやっていればよいというものではありません。昔から「書は人なり」と言われますが、書には書く人の全人間性が表れます。書物を読んで見識を広めたり、音楽や美術など他の芸術に触れて感性を磨いたりすることによって、その人の人間性は培われ、そうしたことが書の芸術性を高めます。水の流れ、風の音、鳥の声などにも学ぶべきことは多くあります。あらゆる人、あらゆる物、あらゆる事象から学ぼうとする姿勢が大切です。
技術の書ではなく、心の書をめざせ。
書を学ぶ上で技術を習得するということは大切なことですが、技術だけが上達すればよいかというと、そうではありません。上手い書が必ずしも良い書であるとは限りません。上手く書いてやろうという野心がみえたり、テクニックをひけらかしたり、奇をてらったような書は、本当の意味で人の心を打つことはできません。「心手相応ず」という言葉がありますが、心とからだが一体となって初めて見る人の心を動かすことのできる書が書けるのです。もちろん、常にその心を磨く努力を怠ってはなりません。
我捨無心、無我身への求道。
自身のプライドや名誉欲にとらわれていては、書は上達しません。書展で入賞することだけを目指した競いの書や、自分の感性だけを過信した自己満足の書は良い書とはいえません。おのれを捨て、雑念を捨て、心を無にすることによって、心の書は生み出されます。自我にとらわれている時、心は窮屈で、その書は萎縮します。自我を捨て無の境地になれた時、心は自由になり、そこに真の芸術が生まれるのです。禅の悟りにも通ずる書の奥義です。
書の道を志す者は、人倫の道をも志さねばならない。
書を学ぶ者は、「人としてどうあるべきか」ということを常に意識していなければなりません。まさに「書は人なり」です。利己的で思いやりのない人には人の心をうつ書は書けません。心卑しい人には格調高い書は書けません。良い書を書くためには、まず良い人間であろうと努力せねばなりません。優れた書を書こうとするならば、優れた人間であろうと努力する必要があります。目標もなく、努力もせず、怠惰に日々を過ごしている人には上達は望めません。